文学の小路
文法の変化
明治維新後、西洋の思想や文化を取り入れる文明開化が推進され、文学にも大きな影響を与えた。言文一致運動もその一つである。言文一致の結果、日本語の書き言葉は、それまで日本文学において重きをおかれていた漢文の伝統から切り離され、明治中期には現代の日本語の書き言葉に直接連なる文体(「だ・である」調と、「です・ます」調)が確立した。文学という語自体、翻訳語として創り出されたものであり、この頃に現在一般に使われ私たちが考える文学という概念が生まれた。
第二次世界大戦の敗北の後、日本語の表記には現代仮名遣い・新字体化という改革が行われ、全国規模のメディアの発達によって、日本文学にさらに大きな変化がもたらされた。



思索の旅
明治時代の文学
啓蒙期の文学と『小説神髄』
1868年に明治時代(1868年 – 1912年/明治45年)となって以降、西洋文明の輸入により長い西洋の思想・文学の翻訳と紹介を中心とする啓蒙時代が始まった。森有礼の呼びかけで発足した明六社は、啓蒙思想をもとに、明治という新社会においての実利主義的主張をした。これは大衆に広く受け入れられ、福澤諭吉『学問のすゝめ』(1872年)、中村正直訳『西国立志編』(1871年)、中江兆民訳『民約訳解』(1882年/明治15年)がよく読まれた。文芸創作に関しては、明治に入ってしばらくは江戸時代と同様の文芸活動が続いていた。明治維新から1885年/明治18年に坪内逍遥が日本で初めての近代小説論『小説神髄』を発表するまでの期間の文学は、戯作文学、翻訳文学、政治小説の3つに分類される。
戯作文学は、江戸時代後期の戯作の流れを受け継ぎつつ、文明開化後の新風俗を取り込み、人気を博した。仮名垣魯文は、文明開化や啓蒙思想家らに対して、これらを滑稽に描いた『西洋道中膝栗毛』(1870年)、『安愚楽鍋』(1871年)を発表した。
翻訳文学は、明治10年代(1877年/明治10年 – 1886年/明治19年)になってさかんに西欧の文学作品が移入され広まった。代表作は川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(1878年/明治11年)、坪内逍遥がシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』(1884年/明治17年)である。
国会開設や、自由党、改進党の結成など、自由民権運動の高まりとともに明治10年代(1877年/明治10年 – 1886年/明治19年)から政治小説が書かれるようになる。政治的な思想の主張・扇動・宣伝することを目的としているが、矢野竜渓の『経国美談』(1884年/明治17年)、東海散士の『佳人之奇遇』(1885年/明治18年)といったベストセラーになった作品は、壮大な展開を持った構成に、多くの読者が惹きつけられた。坪内逍遥の『小説神髄』発表後は、その主張を受けて写実主義的要素が濃くなり、末広鉄腸の『雪中梅』(1886年/明治19年)はその代表的な作品である。知識人が真面目に社会・人生をとりあげた点が文学の社会的意義を高め、漢文調の文体も人々に感銘を与えた。
写実主義とロマン主義
日本の近代文学は、坪内逍遥の『小説神髄』(1885年/明治18年)によって実質的に出発し、二葉亭四迷は『小説総論』(1886年/明治19年)を書いた。前者をもとに逍遥は『当世書生気質』(1885年/明治18年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して1887年/明治20年に発表された四迷の『浮雲』は、日本の近代小説の嚆矢(こうし)とされる。
こうした写実主義的な近代小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年/明治18年、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』(1889年/明治22年)や『金色夜叉』(1897年/明治30年)を発表した。幸田露伴は『露団々』、『風流仏』(ともに1889年/明治22年)、『五重塔』(1891年/明治24年)などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。紅葉と露伴の活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。
近代化が進むにしたがって、自我意識の目覚めは人間性の解放をもたらし、開放的な自由を求めるロマン主義文学が登場する。森鷗外はドイツでの経験を題材にした『舞姫』(1890年/明治23年)を発表し、自我の覚醒を描いた。また鷗外はアンデルセン原作の『即興詩人』(1892年/明治25年)を訳し、典雅な擬古文体によって詩情豊かな恋物語を伝え、広く愛読された。北村透谷は近代的自我の内面の充実を主張した評論『内部生命論』(1893年/明治26年)を書いた後、25歳で自殺した。樋口一葉は、代表作『たけくらべ』、『にごりえ』(ともに1895年/明治28年)が鷗外・露伴の激賞を受け注目されるが、24歳の若さで死去した。泉鏡花は、『高野聖』(1900年/明治33年)、『歌行燈』(1910年/明治43年)といったロマン的情緒の深い作品を発表し、幻想的・神秘的な独自の世界を拓いた。国木田独歩は自然美を随筆的に描いた『武蔵野』(1898年/明治31年)を発表し、キリスト教人道主義者の徳冨蘆花は社会的視野を持った家庭小説『不如帰』(1899年/明治32年)を発表した。独歩はやがてロマン主義から自然主義的な作風に変化していった。日本のロマン主義文学は、西欧のそれに比べて短命であった。
自然主義と反自然主義
20世紀の初め(明治時代の末期)になると、ゾラやモーパッサンといった小説家の影響を受け、自然主義文学が起こった。ヨーロッパの自然主義は当時の遺伝学・社会学などの知見を取り入れ、客観的な描写を行うものであったが、日本では現実を赤裸々に暴露するものと受け止められた。日本における自然主義文学は、島崎藤村の『破戒』(1906年/明治39年)に始まり、後に田山花袋の『蒲団』(1907年/明治40年)によって方向性が決定づけられたとされる。花袋の小説は私小説の出発点ともされ、以後日本の小説の主流となった。他の自然主義作家としては、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥らがいた。秋声は『新世帯』(1908年/明治41年)を、白鳥は『何処へ』(1908年/明治41年)を、花袋は『田舎教師』(1909年/明治42年)を、藤村は『家』(1910年/明治43年)、『新生』(1918年/大正7年)を発表した。
この自然主義の流れに相対する形で存在していたのが、後述の反自然主義文学と呼ばれる潮流である。夏目漱石や森鷗外、後には耽美派・白樺派・新現実主義が反自然主義に分類される。
漱石と鷗外は日本近代文学を代表する小説家としてしばしば並び称され、それぞれ余裕派、高踏派と呼ばれる(漱石の影響を色濃く受けていた後期の鷗外は余裕派に含まれることもある)。当初写生文や漢詩、俳句を著していた漱石は、高浜虚子の勧めで執筆した『吾輩は猫である』(1905年/明治38年)で文壇に登場した。続いて発表した『坊ちゃん』、『草枕』(ともに1906年/明治39年)などの作品で自然主義文学とは異なる作風を示し、前期三部作と呼ばれる『三四郎』(1908年/明治41年)、『それから』(1909年/明治42年)、『門』(1910年/明治43年)で文明を獲得した近代知識人の内面を描いた。修善寺の大患後に『こゝろ』(1914年/大正3年)、『明暗』(1916年/大正5年)といった作品で、人間の利己を追い求めた。また、鷗外も漱石の旺盛な執筆活動に刺激されて創作活動を再開、『青年』(1910年/明治43年)、『雁』(1911年/明治44年)などの現代小説を書いた後、『渋江抽斎』(1916年/大正5年)など史伝・歴史小説に転じた。
明治時代の詩歌俳句および演劇
詩では、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『新体詩抄』(1882年/明治15年)が刊行され、新体詩が盛んになる。
ドイツから帰国した森鷗外は翻訳詩集『於母影』(1889年/明治22年)を、北村透谷は『楚囚之詩』(1889年/明治22年)、『蓬莱曲』(1891年/明治24年)を出版した。透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』(1897年/明治30年)を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』(1899年/明治32年)を刊行。これらロマン主義的な詩は浪漫詩と呼ばれる。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動した。
象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。薄田泣菫や蒲原有明らの象徴詩には、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年/明治38年)の影響がみられるが、『海潮音』そのものが一般に知られ、名詩集としての評価が定着するのは上田の死後の大正期のことである。
ロマン主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』(1901年/明治34年)を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は自然主義に転じ『一握の砂』(1910年/明治43年)と『悲しき玩具』(1912年/明治45年)を刊行した。また啄木同様に自然主義の影響下に、若山牧水の『別離』(1910年/明治43年)や土岐哀果の『NAKIWARAI』(1910年/明治43年)なども生まれた。竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』(1898年/明治31年)を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。
俳句では、正岡子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。
また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『人形の家』の上演などを行った。文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しL.トルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、2代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。
大正時代の文学
反自然主義の諸相
自然主義文学が文壇の主流を占める中で、20世紀の初め(明治時代の末期)から夏目漱石や森鷗外といった反自然主義文学運動が起こった。
当初自然主義文学に傾倒していた永井荷風は、欧州から帰国後、『ふらんす物語』(1909年/明治42年)を発表。荷風に激賞された谷崎潤一郎は『刺青』(1910年/明治43年)や『痴人の愛』(1924年/大正13年)などを書き、後期ロマン主義とも呼ばれる耽美派が生まれた。これは「スバル」「三田文学」を中心に活動した。ほかに佐藤春夫、久保田万太郎に代表される。
これに対し、自由・民主主義の空気を背景に、「白樺」で活動した白樺派の人々は、人道主義を主張した。『お目出たき人』(1911年/明治44年)『友情』(1919年/大正8年)の武者小路実篤や、『和解』、『城の崎にて』(ともに1917年/大正6年)の志賀直哉、『或る女』(1919年/大正8年)の有島武郎、『多情仏心』(1922年/大正11年)の里見弴らである。特に志賀直哉の私小説・心境小説は純文学の規範として同時代の若い小説家たちに多大な影響を与えた。
大正時代(1912年/大正元年 – 1926年/大正15年)の中期からは東京帝大系統の「新思潮」で活動する新現実主義が漱石や鷗外の影響の下に現れ、芥川龍之介や菊池寛、山本有三、久米正雄らの活動があった。芥川は『鼻』(1916年/大正5年)で登場し、古典に取材した数多くの短編などで大正文壇の寵児となった。一方、劇作家として知られた菊池寛は歴史小説や通俗小説を、山本有三は健康的な教養小説を書き、活躍した。芥川は1927年/昭和2年、『河童』と『歯車』という傑作を書いた後に自殺した。芥川の自殺は時代への不安を示すものとして、知識人や小説家に衝撃を与えた。物語性を重視する谷崎潤一郎に対して、芥川は「“筋の面白さ”のみが小説の価値ではない」と芸術至上主義を擁護し、文学論争となった直後の死であった。
また、奇蹟派(新早稲田派)と呼ばれる広津和郎や葛西善蔵、宇野浩二、嘉村礒多らによって私小説が書かれた。人間内部の心理の現実を深く見つめるもので、人生の暗さが描かれた。
大衆小説の興隆
大衆小説は、明治期に尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897年/明治30年)などの風俗小説が発展し、村上浪六、塚原渋柿園の髷物(撥鬢物)、押川春浪の冒険小説など通俗的な小説が書かれ、その先駆となった。
1913年/大正2年に、中里介山は「大乗小説」と称する大作『大菩薩峠』の連載を開始。人間の業を描こうとした時代小説で、未完に終わったがその影響は大きく、大衆小説の出発点とされる。1925年/大正14年に刊行された「キング」には当時の人気小説家がこぞって執筆した。昭和時代に入ってから吉川英治が高い人気を得て、『鳴門秘帖』(1933年/昭和8年)、『宮本武蔵』(1939年/昭和14年)などで国民小説家の名を冠せられた。このほか、講談や読本の流れをくむ時代小説では、大佛次郎、白井喬二らが活躍した。
探偵小説は黒岩涙香の翻案小説などで紹介された。このジャンルでは、「新青年」に『二銭銅貨』(1923年/大正12年)でデビューした江戸川乱歩が数多く執筆し、多大な影響を与えた。このジャンルは甲賀三郎、横溝正史らのほか、江戸時代を舞台にした「捕物帳」と呼ばれる時代物が書かれた。
大正時代の詩歌俳句および演劇
口語詩が次第に完成されていき、室生犀星、佐藤春夫、山村暮鳥らがそれを高めた。とくに『道程』(1914年/大正3年)の高村光太郎、『月に吠える』(1917年/大正6年)、『青猫』(1923年/大正12年)の萩原朔太郎は口語自由詩を確かなものにした。一方、堀口大學は訳詩集『月下の一群』(1925年/大正14年)を発表、この時期に再評価された上田敏の訳詩集『海潮音』とともに、名訳詩集として高い世評を得た。
宮沢賢治は岩手県の風土に根ざした数多くの詩と童話を書いたが、生前に刊行されたのは『春と修羅』(1924年/大正13年)・『注文の多い料理店』(1924年/大正13年)の2冊のみであった。宮沢の作品が評価を受けるのは彼の死後のことであり、特に草野心平の尽力によるところが大きい。
短歌では、正岡子規の精神を受け継ぎ、「アララギ」を舞台とする写実的なアララギ派が主流となる。中心人物は伊藤左千夫や長塚節らで、左千夫の死後は島木赤彦が積極的に活動し、アララギ派の地位を向上させた。同派の斎藤茂吉は歌集『赤光』(1913年/大正2年)で万葉調の中に近代的抒情を歌った。
俳句は、新傾向俳句を創作した河東碧梧桐の門下荻原井泉水が、「層雲」を開き自由律俳句を確立させた。これには尾崎放哉、種田山頭火が参加。のち「層雲」を離れた碧梧桐は「海紅」を主宰し中塚一碧楼がこれを継いだ。ただし主流は、定型と季題を重視する高浜虚子らの「ホトトギス」であった。
自由劇場や芸術座の活動が演劇界に大きな影響を与え、戯曲の創作が盛んになった。岡本綺堂の『修禅寺物語』(1911年/明治44年)、倉田百三の『出家とその弟子』(1916年/大正5年)、菊池寛の『父帰る』(1917年/大正6年)などの作品が発表された。
戦前昭和時代の文学
モダニズム文学とプロレタリア文学
1920年代半ばから1935年/昭和10年)頃までは、モダニズム文学とプロレタリア文学の併立期である。第一次世界大戦後のヨーロッパに起こったダダイスム・未来派・表現派などの技巧はそのまま日本に輸入され、日本の小説家たちも従来の平板な写実主義や芸術至上主義を唱えているだけではすまされなくなった。既成の文壇や個人主義リアリズムを批判するかたちで、横光利一や川端康成らによる新感覚派がおこった。横光の『蠅』(1923年/大正12年)は映画の手法の影響が見られ、『純粋小説論』(1935年/昭和10年)では「自分を見る自分」の必要性から「第四人称」の設定を試みている。1935年/昭和10年、川端は『雪国』を書き始め、独自の美意識を完全に開花させた。非情と虚無が底流をなす川端の美意識は『末期の眼』(1933年/昭和8年)に端的に表されている。
もう一つのモダニズム文学の流れは新興芸術派と呼ばれる小説家たちであるが、むしろその傍流にあった人々から個性的な世界を樹立する作家が現れた。私小説の伝統を受け継いだ『檸檬』(1925年/大正14年)の梶井基次郎と、頭ばかりが肥大化した知識人を戯画化した『山椒魚』(1929年/昭和4年)の井伏鱒二がその代表である。
新感覚派の流れを受け継ぎ、新興芸術派倶楽部の解体後に優れた業績を残したのが堀辰雄と伊藤整の新心理主義である。ジョイスやプルーストの心理主義の影響を受け精神分析や深層心理の芸術表現を試みた。なお、この時代には小林秀雄が『様々なる意匠』(1929年/昭和4年)で登場し、近代批評のスタイルを確立した。
政治状況を背景に1921年/大正10年に小牧近江らによって雑誌「種蒔く人」が創刊され、次いでプロレタリア文学の潮流が生まれた。『海に生くる人々』(1926年/大正15年/昭和元年)の葉山嘉樹、『蟹工船』(1929年/昭和4年)の小林多喜二、『太陽のない街』(1929年/昭和4年)の徳永直、『キャラメル工場から』(1928年/昭和3年)の佐多稲子のほか、宮本百合子や、中野重治、黒島伝治、壺井栄らによる諸作品が生まれた。プロレタリア文学は、満州事変以降の軍国主義的な空気の中でその運動が発展していった。プロレタリア文学評論も活発となり、蔵原惟人、宮本顕治らの文芸評論が知識層に影響を与えた。
また、革命的運動には参加せず、プロレタリア文学運動の組織外にありながら、支持立場・主張の近かった、いわゆる「同伴者文学」の作家たちもいた。『海神丸』(1922年/大正11年)、『真知子』(1928年/昭和3年)などを書いた野上弥生子、『波』(1928年/昭和3年)の山本有三、『風雨強かるべし』(1933年/昭和8年)の広津和郎、芹沢光治良らが作品を発表した。
戦時下の文学状況
戦時体制の強化によりプロレタリア文学の小説家たちは弾圧を受け、政治性や思想性を放棄した転向作家が続出した。中野重治の『村の家』(1935年/昭和10年)や、高見順の『故旧忘れ得べき』(1935年/昭和10年)、島木健作の『生活の探求』(1937年/昭和12年)などが転向文学の代表である。また、危機的な時局を背景に国粋的動向とともに保田與重郎や蓮田善明ら日本浪曼派の文学活動が見られた。
戦争が暗い影を投げかけるこの時期にも、優れた創作活動は行われていた。1936年/昭和11年、野上弥生子は大長編『迷路』を書き始めた。永井荷風は『濹東綺譚』(1937年/昭和12年)を発表。川端康成は『雪国』に着手(1935年/昭和10年)し、横光利一は日本精神と西洋文明の対決を追求する『旅愁』(未完)に取り掛かった(1937年/昭和12年)。島崎藤村は『夜明け前』(1935年/昭和10年)を、志賀直哉は『暗夜行路』(1937年/昭和12年)を、徳田秋声は『仮装人物』(1938年/昭和13年)をそれぞれ完成させた。『春琴抄』(1933年/昭和8年)を書いた谷崎潤一郎は1935年/昭和10年から『源氏物語』の現代語訳(谷崎潤一郎訳源氏物語)という大事業に取り組み、1942年/昭和17年からは『細雪』に着手し、軍部や警察から中止命令を受けたが、ひそかに書き続けた。徳田秋声は権力の干渉にあって『縮図』(1941年/昭和16年)の筆を折り、未完のまま没した。
文芸復興の機運の中、新人も多く登場した。私小説では、『暢気眼鏡』(1933年/昭和8年)の尾崎一雄や、『鮎』(1932年/昭和7年)、『贅肉』(1934年/昭和9年)の丹羽文雄が文壇に登場し、林芙美子は『放浪記』(1928年/昭和3年)で大きな反響を得た。さらに、『人生劇場』(1933年/昭和8年)の尾崎士郎、『若い人』(1933年/昭和8年)の石坂洋次郎、『普賢』(1936年/昭和11年)の石川淳、『夫婦善哉』(1940年/昭和15年)の織田作之助などが登場し、風俗小説が流行した。また、芥川賞と直木賞が制定され、文学がジャーナリズムの注目を浴びるようになった。『蒼氓』(1935年/昭和10年)により第1回芥川賞を受賞した石川達三は、以後長く活躍した。その他にも、舟橋聖一や、北条民雄、岡本かの子、中山義秀、太宰治らが新風を生み出した。
戦局が拡大していくと、政府による思想・言論の統制が強化され、国の政策に沿ういわゆる国策文学が主流を占めるようになる。例えば、徳田秋声の『縮図』や谷崎潤一郎の『細雪』が連載中に発禁処分を受けたほか、石川達三の『生きてゐる兵隊』(1938年/昭和13年)は、発禁・禁錮処分を受けた。他方で、火野葦平の『麦と兵隊』(1938年/昭和13年)は爆発的な反響を呼んだ。
そうした中でも、自己の文学を守ろうとする作家たちもいた。『風立ちぬ』(1938年/昭和13年)、『菜穂子』(1941年/昭和16年)の堀辰雄や、『歌のわかれ』(1939年/昭和14年)の中野重治、『富嶽百景』(1939年/昭和14年)、『津軽』(1944年/昭和19年)の太宰治、『山月記』(1942年/昭和17年)、『李陵』(1943年/昭和18年)の中島敦らがそれぞれ佳作を残した。
戦前昭和時代の詩歌俳句および演劇
これまでの詩の形式を否定していく事で新しい詩を生み出そうとする実験精神が、大正時代末期(1920年代半ば)ごろより勃興した。シュルレアリスムに影響を受けた西脇順三郎、ダダイスムに影響を受けた高橋新吉、吉行エイスケ、アナーキズム詩から発展したプロレタリア文学の詩の分野では中野重治、壺井繁治、小野十三郎、萩原恭次郎らが活躍し、構成主義に至った。また安西冬衛、北川冬彦、三好達治らが新散文詩運動(短詩運動)を展開。この時期は、これら諸芸術運動や人道主義、農本主義など、多様な運動が相互に影響しつつ発展した。このころ村野四郎、北園克衛などが、モダニスム運動の中で、このほか小熊秀雄、金子光晴、山之口貘、田中冬二などの詩人も活動した。
日中間の戦争の到来によるモダニスム運動の退潮により、詩の世界も変化する。堀辰雄らが主宰する雑誌「四季」では、立原道造、津村信夫、丸山薫ほか「四季派」の詩人達が抒情詩の牙城を築き、日本浪曼派からは伊東静雄が活躍した。そのほか、草野心平、中原中也などもユニークな足跡を残した。この時代の代表的な詩集は三好達治の『測量船』(1930年/昭和5年)、西脇順三郎の『Ambarvalia』(1933年/昭和8年)、中原中也の『山羊の歌』(1934年/昭和9年)、中野重治の『中野重治詩集』(1935年/昭和10年)、高村光太郎の『智恵子抄』(1941年/昭和16年)などであり、歌集は島木赤彦の『柿蔭集』(1926年/大正15年=昭和元年)、会津八一の『鹿鳴集』(1940年/昭和15年)、句集は水原秋桜子の『葛飾』(1931年/昭和6年)、中村草田男の『長子』(1936年/昭和11年)などである。また、土屋文明が優れた短歌を残した。
演劇では、岸田國士の『紙風船』(1925年/大正14年)、久保栄の『火山灰地』(1937年/昭和12年)、田中千禾夫の『おふくろ』(1933年/昭和8年)、さらにプロレタリア演劇の戯曲として村山知義の『暴力団記』(1930年/昭和5年)が評価された。

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